昭和59年2月1日 月次祭

真の、信心、真の信心、で、えぇ、毎日を、明け暮れを過させて頂いております。寝ても覚めても、真の信心をさせて頂きたい。
えぇ、せっかく信心をさせて頂くのでございますから、いよいよ、おぉ、真の信心になって、まいらなければならん、もう、限りがない。そこでこれは皆さん、本当に真の信心が分かりたい、いわゆる真の信心真の信心と、でけるでけんは別として、ここに一心発起しなければ、ね、いつまで経っても真の信心はでけません。金光教が始まって100年、もうどのくらいな人が、あぁ、もうそれこそ、あらたかな、おかげを受けてきたか分かりませんけれども、ん、ただおかげを受けた、というだけで、えぇ、真の信心になっておりませんから、真の、徳にも、栄えることにもなっていないのです。ね。だから先ずはね、えぇ、真の信心、本当の、をぉ、信心を頂きたい、とこう、おぉ、念願する、願わなければいけない、そこに一心発起しなければならない。ね。そこには必ずね、神様が手応えを下さる。お喜びの情を見せて下さる。様々な形の上に。でけなくても、真の信心が分かりたい、真の信心真の信心、、。
もうこれは椛目時代でしたけれども、千足に古賀さんという甘木の御信者で、大変熱心な御信者がおられました。ある時に、椛目からお話に来てくれというので、私と、4,5人のおもっ、主だった信者さん方が、一晩泊りで千足にまいりました。もうほとんど一晩中お話をさして頂いて、明くる朝、お食事をさして頂く時に、あちらのお母さんが、「大坪先生これは私の方の宝でございます。」と言うて、あの、一本の白扇を持ってみえられました。開いてみたら真ん中に、小~さい字で「真の信心」と書いてあった。「攝胤」と。金光様の名前が書いてある。「これは先だって御本部参拝の時に、金光様にお願いをして、お書き下げを頂いたものでございます。」と言われるのです。真の信心、まぁお道では、まぁ、これは、もう、いつも誰でもどこででも、真の信心真の信心ということだけは言いますけれども、その真の信心を我が身に頂こうと、念願する人は本っ当に少ない。えぇ、真の信心を頂きたい、私はその白扇を開かせて頂いて、神様に、「真の信心とお書き下げを今拝ませて頂いたが、真の信心とはどういう信心をいうのでございましょうか?」と、金光様の信心頂いとりゃ真の信心頂いておるといったような、浅はかな考え方は間違いです。ね。っと神様に御祈念をさして頂いた時に、三代様のお言葉で、頂きましたのが、「安心のおかげを受けることであります」とはっきり頂いたんです。金光様っ、三代様のお声で、それ以来何十年間、私は、ははぁ真の信心とは安心のおかげを頂くこと、これが願いじゃなからなければいけないなという風に、まぁ思い続けてまいりました。ところが、先だって、えぇ、東京の、ん、大学の教授をしておられる方が、仏教についてのご講義があっておりました。そして色々と、おぉ、お話の中に、やはり仏教でも、おぉ「安心立命」ということを申しますが、ね、心の安心の状態というものが、あぁ開けてくるということ。まあ、中には御霊様を拝むとか、あぁぁ、御利益、御利益と、もう御利益専門の仏様もござるようですけれども、これはお釈迦様の説かれた仏教ではありません。ね。御利益といっ、というようなものではない。ね。いわゆる教えを尊しとしていよいよ、まあ極めてまいりますと、確かに仏教を極めて行くと、まあ、勉強すると面白いようですね。いわゆる、しっ、仏教哲学と言われる、その、その深さと言うかね、広さにおいて、もう中々深遠なものがあるわけなんだ。でそこで、えぇ心にいわゆる悟りが開けてきて、まぁ安心立命の、おかげを頂く。御利益とは関係が無い。という話っ、非常にそこに力説をしておられましたね。
私はそれを聞かせて頂きながら、何十年前に金光様が、ね、「真の信心とは安心のおかげを受けることであります」と仰せられた安心とは、仏教っ、他の宗教で説くところの安心とは違う。三代金光様が教えて下さった「安心のおかげを受けることであります」ということは、ね、その、安心の、状態に応じて、ね、人間の幸せの条件が、段々足ろうてくる、しかも大きく育って行く、安心がそっ、大きく育って行けば行くだけ、金光教の信心でいうところの安心というのは、もう絶対おかげが伴う安心であって、本当の、いわゆる、おかげを言うことは信心じゃないように言われるけれども、なるほど四神様が仰せられますように、「病気治しや災難除けの神ではない、心治しの神じゃ」と仰せられます。ね。ですけれども、やはり病気治し、災難除け、の、神で、終始した信心を頂いておる人があまりにも多いのです。心の中に開けてくる、安心、中には勿論よろっ、しっ、信心の喜びが育ってまいります。「これから先どのような事が起こって来ても驚いてはならん」と仰せられるような、そういう心が段々育って来る。それが、自己流であるか自己流でないのか本当の安心であるかないかということは、おかげが伴わないとするならば、それっ、貴方が頂いておる安心は、本当のものじゃないんだ。三代様が教えて下さった、真の信心とは、そういう安心を、いよいよ頂き育てて行くということである。そして金光大神の世界に住むことである。金光大神の世界に住むということは、ね、天地との、交流の、あり続けれる世界であります。ね。そういうおかげの頂けれる手立てを教祖は説いておられます。ね。
「雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならん、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃ」と。ね。自分の信心の目標、というものが、真の信心を頂きたい、真の信心を頂きたい、真の信心がっ、自分の信心の血肉になって行くことの喜びを、自分で感じて、自分で手応えを感じれれる、そういう信心修行が、だから大事だということになります。
この前の、前の月次祭、18日のね、月次祭、大変なあの大雪の晩でございました。私下がっておりましたら、あいっ、子供達が挨拶に出て来て、今日は、えぇ、臼杵の方から、御参拝、かっ、お月次祭に必ず御参拝になられる。いつも、4時間掛かる片道、ところがあの日は、ゆっ、途中が、あの大雪のために、7時間掛かった。こちらへ着かせて頂いたら、もうお祭は済んで、親先生のお説教だけを頂いて、またそのまま帰られたと言う。はぁ泊まっておいでらりゃぁ良かったのに、にっ、帰る。私はそのことを直ぐ神様に、お礼やらお願いやらを申させて頂きましたら、まあ、ぁ、御神眼に頂いたのは、こう、縄はしごのような所を、こう一段一段登って行っておる、その途中に、こう、棒で、えぇ、の所があって、こっ、ここが一きりという所をあの、ような状態を頂いて、私はそれを頂いて、感じましたことは、例えば真の信心が分かりたい、真の信心が分かりたい、とこう、おぉ、念願さしてもろうて、精進さしてもらう、そこにです、ね、言うなら、雨が降るから風が吹くからといったようなことがありますけれども、今日はこの風だから、この雨だからと言うのでなくて、そこをです、どうとかして、ね、ねまたどうでもという一心を、ここに貫いて、行った時に、この棒の、とっ、所を登り、きったことになるのであって、そういう時に、信心の力というものは付くもんです。「信心も手習いも同じこと、一段一段上がって行く」と仰せられるが、どういう時に私共の信心が一段一段進んでおるかと、ね、それをうんなら、雨が降るから風が吹くからで、もし躊躇したり、えぇそこで、えぇ挫折したり、は、あ、一段一段上がって行くということは、もうそこで留まってしまうわけです。信心修行の大切なところはそこです。ね。私の自分の信心を振り返ってみて、私はそういうところを、非常にたいっ、特に大切にしてきたように思います。普通の者ならば、ね、そうまではせんでも、と思うようなところを、そうせずにはおれれなかった内容が、あったように思います。
私も、はじめから真の信心が、あぁ、今でもまだその過程でございますですけれども、でえあったりもう本当の、言わば、あぁ、御利益信心、に終始しておった、時代があります。ただ、あぁ、大きなお商売でもさしてもろうてうんと儲かったら、ね、神様へもうんとお供えでもさしてもらおう、そういう様な事が、よかっ、良か信心のように思うておった。決してそうではなかった。終戦という大きな、言うなら、お国が一つの終止符を、うっ、打つような、事が国民一人ひとりの上に、あぁ、現れてまいりました、それを期に私の信心は、本当なものに目覚めて来たように思います。私が、少年時代、12歳の時、三井教会で荒巻先生と岸先生の、お話の中に、「先生、三井教会から一人で良いです。本当の信者、真の信者を一人で良いから作って下さい」と、こう話しをしておられるのを横で、私が立ち聞きしておった、それが耳に入って来た。そん時に私の心の中に、「その本当の信者っちいうとに私がなろう」とこう思うた。ね。思うた途端に、可笑しいぐらいに感動が沸いて来て、直ぐ横にあったミカン畑の中で泣いたおっ、記憶がございますが、確かにね、本当な事が分かりたい、真の信心が分かりたいと一心に、こう、思うただけで、神様は、に、通じたと言うか、喜んで下さったと言うか、もちろんそれから何十年間、やはりそれでもおかげ信心に留まっておりましたけれども、えぇ、何っ十年間の、苦労が報いられずに、また、裸一貫で内地に引き上げて帰って来て初めて目が覚めた。これは今までも、おかげはおかげと確かに頂いて来たけれども、今までおかげは本当なもんじゃなかった。と、言うなら、あぁまあ、心に開けるものがあって、いわゆる真の信心を求めて、もぉうあらゆる先生のお話を、遠い近いをきに問わずに、えぇ、偉い先生がみえると言うと、ね、行ってお話を聞いたもんでございました。そして様々な、御修行をなさって、えぇ、御教会にごヒレイを頂かれたという先生方のお話も頂いて、先生に出ける事なら私に出けないはずはないというような修行に取り組ませて頂いて、そして真の信心を体得したいと思いました。ところが私の場合は一向それが本当のおかげにはなってまいりませんでした。ん。そこで、そういう修行を、を、から、いわゆる、合楽で、今御理念と申します、合楽理念の、まっ基礎的な信心、成り行きを尊ぶ、成り行きを大切にさして頂く、といったような、言うなら、天地日月の心の一部の信心を、本気で頂くことに、なっ、なったのです。ね。そこから、神様と私との間の、一つの、おぉ、交流ルートが生まれてまいりました。えぇ。もちろん自分も助かり人も助かる、今までとは違った信心の喜びがいよいよ募って来るようになりました。それから何十年間、このようにおかげを頂いております今日も、やはり、真の信心とは真の信心とはと、三代金光様が仰せられたしっ、真の信心とは安心のおかげを受けることでありますということも、分からんまま何十年間来たように思います。ね。最近私は、教祖っ、いわゆる三代金光様が、教えて下さった、あぁ、真の信心とは、または、真の信心とは安心のおかげを受けることでありますと仰せられる、安心のかげとはということが、こう分かり出したような気が致します。ね。
皆さん、おみっ、金光大神の教えられる安心というのは、必ずおかげが伴うのです。いらんと言うても伴うてくっ、付いて来るんです。ね。天地との、言うならば、ん、天地の、まっ、リズムが、あぁ、聞こえて来るようになります。そこは金光大神の世界です。その金光大神の世界に、いすっ、いよいよ、言わば、あ、スッキリと、ね、いよいよ本当なものを求めに求めながら、住まわせて頂きたいという風に、えぇ、最近思わせてもらいます。
先ずは一心発起すること。もう本当に素晴らしいどんなに、信心を、いぇ、信心と言うが、なら日参なら日参、を本当に、珍しいと言われるように、なら日参の修行をさして頂きましても、ね、その、眼目が違う、このおかげば貰わんならんから、参りよるとっちいったようなものではなくてね、いわゆる、真の信心が身に付いて行くことを楽しみに、日参が出けるようになると、ね、もう占めたもの。これっ、しかもこれで良いというはありません、もう限りなく、いわゆる真の信心を求めに求めて、頭が良いから、悪いからといったようなことは関係ありません。もう誰でもその気になれば頂ける。真の信心を身に付けて行くことが出ける。ね。そして心に、言うならいよいよ喜びが募って来る、安心の心は育って来る。そういう安心を教祖金光大神は説かれたと思います。仏教で言う、安心立命といったようなものでは全然ない、過去の宗教家が説いて来た安心というものとはとは違う。御利益を、軽っ、軽視する、傾向がございます。ね。これはお道の信心でもそういう傾向が現れつつあります。ね。御利益を、は、ね、頂けんでも心が助かりゃ良いじゃないかと、そんな、金光大神の信心によって心が助かるということはもう絶対、その助かりにはおかげが伴うのです。ね。だからそのおかげが伴う安心であって、初めて真の信心だということになります。
皆さん、どうぞ、ね、100年祭を期して、ね、願う氏子におかげを授けと仰せられるおかげの、を、じっ、実際を私共は体験して、あらたかな神様であることは分かったのですから、これからはその神様の、御心を体して、神様の手にも足にもならせて頂こう、ね、神願成就の為の、言うなら立教神伝を我が身に受けての気持で信心を進めて行こう、その、例えば内容を申しますならば、いよいよ真の信心を頂いて行こうということだと思うのです。だから真の信心を頂きたい、ね、頂かして下さいという、私は、もう、そこに、えぇ、一心発起して、私共の信心のほっ、構えというものが、ね、真の信心、真の信心、寝ても覚めても真の信心真の信心と、そこから、ね、それこそ一人ひとりが、新たな、発見をすることでしょう。えぇ、ね、その、おぉ、真の信心、真の道をです、これはまた限りがないことでございます。私も改めて、教祖様がまたは三代様が教えて下さる御教え、または、仰せて下さる安心とは、ん、もう頂きよる信心こそ真の信心だと仰せられる安心とは、ね、只今申しましたような内容から、あぁ、生まれて来る信心。
んん、はじめの間はおかげのことを、まあおかげおかげおかげを頂いて、神様の、あ、あぁ、働きを、えぇ信じれるまではおかげおかげで良いけれども、おかげおかげでもし終始したらね、そのおかげも本当なことにはならん仕舞いに終わります。ね。何故かと言うと、神様は、言うならば、這えば立て、立てば歩めという、うぅ、親心でございますから、ね、いつまでも、おぉ、言うなら、甘いおかげだけを下さることはありませんのです。ね。合楽教会では、ね、立教神伝を我が身一人の上に受けてというような生き方、それはいよいよ、どうぞ、もう、せっかくお参りをさしてもらうのでございますから、せっかくお話を頂くのでございますから、その中から、私が頂かなければならない真の信心を分からして下さいという、ね、こういう願いに立っての信心に、変わって行かなければならん、そしていわゆる、真のおかげを頂き現わして、教祖金光大神の信心とは、真の信心とはという、手本を一つ頂き、皆さんにも示して行けるような、おかげを頂きたいもんであります。

どうぞ。